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2012-03-12

僕を変えた1年間

日付で言えばもう過ぎてしまったわけだけど、やはり書かないわけにはいかないなと思う。

2011.03.11

その日、僕は何をしていた?

はっきりと思い出せる。
前日の3月10日から一泊で隠岐の島町に出張し、15時過ぎ出港のフェリーに乗船した時、船内のテレビで未曾有の大地震が発生したことを知った。

テレビではひっきりなしに津波警報を流していたが、その時点では事の重大さに気づくことなく、仕事で疲れていたこともあり、船内でいつものように寝た。

そして、17時半ころ、七類港に入港した後くらい、もう少し具体的には車でラジオを聞いたであろうくらいから記憶が断片的になる。
おそらく、ラジオを聞いてようやくとんでもない事態なんだと認識したのだろう。


僕がしたことといえば、被災地にボランティアに行くこともなく、せいぜい募金箱にお金を投入するくらいだった。

それでも、3.11はたしかに価値観を少し変えた。
それは時間が経過するにつれて、僕の中に深く静かに浸透していったようだ。
気づいたら、僕の中には新たな価値観が形成されていた。
自分の仕事は何なのか。誰のために、何のために仕事をしているのか。どんな価値が提供できているのか。

その証拠に、このブログは昨年3月末から始めているが、その頃でさえ何一つ地震については触れていない。
その理由は今この時点からでも推測は容易だ。
3.11について何か書いても薄っぺらくなるので、避けていた。
そういう僕が、1年というある種のタイミングでこうして書いた、ということはやはり何かが変わったのだろう。


僕が中学生だった頃、阪神淡路大震災が発災。
発災の時間帯は未明で、当時それなりに部活に精を出していた僕は、一度眠りに入るとちょっとやそっとじゃ起きない深い眠りが得意な子どもだった。
当時の住まいである大田市では震度が3とかそこらだったらしいが、僕は一切起きることなく、普段通り朝7時半くらいに起きて、母親からニュースを聞かされて知った。

今となっては非常に近い関西で起きた大きな災害であったにもかかわらず当時は、まったくもって現実感のない、自分の日常とは切り離された「ニュース」としか認識できなかった。


同年代の人もそうでない人も、まさか一生のうちにこんな大規模な地震災害を二度も目の当たりにするとは、とても想像もしなかっただろう。


話は飛びに飛ぶが、東日本大震災がもし深夜に発災していたら、死者数はゼロが一桁増えていたであろう、という話もあるようだ。

2万人の死者で済んだことはむしろ恵まれていた? 防災学者が危ぶむ「魔法の津波対策」が語られる世相 ――藤間功司・防衛大学校教授のケース|3.11の「喪失」~語られなかった悲劇の教訓 吉田典史|ダイヤモンド・オンライン

ラジオを聞き、テレビを見て、涙が自然と溢れそうになる。
でもそれは、理不尽な自然の猛威に対する怒りなどではなく、それでも何かを守ろうとする人、正確な情報を伝えようとするヒト、可能性は低くとも生存者を探そうとするひと、静かに心に寄り添う「人間」を目の当たりにするからだ。

被災された方たちにとっては、ここまで氾濫してしまった「絆」という言葉が重たいようだ。

不思議な因縁か。
3.11の一ヶ月ほど前のタイミングで、僕はまさに地域の、コミュニティの「絆」の力を指す「ソーシャル・キャピタル」について書いた修士論文を学内発表していた。

ソーシャル・キャピタルと「幸福度」について、地域内の「共食」と家庭内の「共食」の視点から何か得られないか。
共食をキーワードにソーシャル・キャピタルを醸成することができるのではないか、と考えた。

ソーシャル・キャピタルというものは、今後僕の中ではきわめて重要なアイディアとなると思う。
僕の能力ではソーシャル・キャピタルを十分に理解することは困難を伴うけど、それをライフワークとしても、仕事にも活かしたいと思う。

ヒトは共通する困難、課題がなければ協力はできないのか?そんなことはないはずだ。


今日は、学生の頃に得た大事な地域の近くを思いがけず訪れることになって、それが3月11日であるということに、また何かの因縁を感じたので、どうしても今自分の中の言葉を書きだしておきたかった。

整理することもなく書きなぐっているので、自己満足なポストだけど。

いつか、東北を訪れてみたい。
願わくばその頃には、少々金を使っても惜しくないくらいには自立していたい。


2012年3月11日 記