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2011-07-05

復興への道のりと大臣辞任と

松本龍氏(ヨミウリ・オンラインより)

松本龍氏が失言で復興担当大臣を辞職しました。

コレに関する世論としては、9割くらい「何を言ってんだ」「辞めて当然」と、賛成が多いように感じます。

そんな中、このブログのように松本龍氏を断固指示すると表明する人も出ています。


言葉遣いはこの時期なので、本当に大事に考えなければならないし、政治家にとっての言葉は分身であり、命であるでしょうから、「粗にして野だが、卑ではない」などと後から誤魔化されても困ります。
そういう意味で、資質として復興担当大臣が適任であったか、という点は疑問が生じます。

ただ、ひどい言葉遣いを切り離して、言ってることの本質を見るとどうなんでしょう。


上記ブログの中で主張されているのは2点。

  1. 被災漁港の集約について「県でコンセンサスを得ろよ」と注文した点
  2. 「知恵を出さないところは助けない」と発言した点
この2点について、時期的なことを別にすれば、わからないではないかなと思います。


漁港の集約

単純に漁港を集約するという話であってさえ当然住民のコンセンサスを得て進めなければならないが、それ以上の話である。
宮城県の復興計画
野村総研が全面関与
知事「地元の人 入れない」
東日本大震災からの復興をめぐり、宮城県では村井嘉浩知事が、大企業が漁業権を獲得しやすくなる「水産業復興特区」構想を打ち上げる(10日)など財界と同じ「構造改革」路線が突出しています。同構想には、漁業者が激しく反発していますが、知事は「撤回するつもりはない」(23日)と貫徹する構えです。
(中略)
「あえて地元の方はほとんど入っていただかないことにした」と表明。その理由として「地球規模で物事を考えているような方に入っていただいて、大所高所から見ていただきたいと考えた」などと語っていました。
県(知事)の独走である。
住人のための理想を掲げて住人を置き去りにするだけでも、民主主義の軽視である。三分の理ぐらいはあるが、許されない。
宮城県の施策はそんな理念の暴走ですらないのである。最初から住民は埒外に置いた、企業の利益のための施策。災害というチャンスを利用して住民の権利を剥奪し、企業に与えようという施策だ。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-05-29/2011052901_02_1.html


正直、宮城県内でどのような体制で復興計画を考えているのかわかりませんが、復興計画の検討委を見ると、件の野村総研はもとより、三菱総研、日本総研、日本政策投資銀行など大手シンクタンクが参加しています。

そのような中では、今回の震災を機に、大きな構造転換を図るチャンスだと考えることはあり得るので、上記のような状況はあるのかもしれないなとは思います。

そして、そういう内情を松本龍氏が掴んでいて、民意をハナから除外するな、という釘を差したのだとしたら「なるほど」とは思います。

他方、そういう大きな災害後だからこそ地方行政のトップとして、百年の計をもって上記構造改革を推進しようとしている可能性も否定できないのかなと、遠く離れた場所にいると思うわけです。

その好例が関東大震災で被災した東京において、多くの反対を押し切って区画整理事業を実行した東京市長永田秀次郎氏です。

永田秀次郎は「市民諸君に告ぐ」と題した演説を行った。

全文はリンク先で読んでいただくとして、被災後の厳しい状況において、

もし万一にも我々が今日目前の些細な面倒を厭って、町並や道路をこのままに打ち棄てて置くならば、我々十万の同胞はまったく犬死したこととなります。我々は何としてもこの際、禍を転じて福となし、再びこの災厄を受けない工夫をせなければならぬ、これが今回生き残った我々市民の当然の責任であります。後世子孫に対する我々の当然の義務であります。

とあり、被災した街を後世にどう受け継いでいくのかということに力点が置かれています。

宮城県の漁港集約がどの程度こうした理念を持っているのかは知りませんが、なければ論外。あるならどんな反対があっても、子や孫、ひ孫に至るまで暮らしやすい宮城にしていくのだという強い決意を表明する必要があるでしょう。


知恵を出さないと助けない件

これについては、平時であればそうだと思います。平時なら全面同意です。
地域振興、再生に意欲のない地公体まで積極的に支援することは過剰保護だと思います。

が、今は平時ではないので、あまりにも高所からの物言いになっています。

この件以外にも 、松本龍氏は国より県が立場が上だという認識のもと発言されているように見受けられました。


リンク先では、この発言については予算が限られる以上、選択と集中は必要なので、そういう意味で言ったのであろうと擁護しています。

果たしてそうなのでしょうか。
予算が限られている中、選択と集中という考えはある意味当然であり、前提条件じゃないのかなと思うわけです。
もしそれがわからずに復興計画を描いているのだとしたら宮城県職員の資質が疑われると思いますね。

よって、この発言は現時点では擁護できない、というか意図がわからない。


おわりに

コンセンサスを得ろの件について、最近よく考えることではあります。
それは、住民ニーズと、政治家あるいは行政のニーズは必ずしも一致しないだろう、という点です。

つまり、住民にニーズを聞いて歩くこと、それは重要で欠くべからざることではありますが、住民から出てくるニーズの多くは、「困っているのは今なんだよ!」といった現時点でのニーズですよね。
それが悪いのではなく、住民は困ってるんだからそれが当然だと思います。

一方で、政治家や行政に求められるのは、そういった即時的対応とは別個に、5年後10年後あるいは100年後のこの地方をどうしていくのか、という長期的な復興ビジョンを示すことだと思います。

そこで齟齬が生じるのだろうと最近考えます。

僕自身も、今回の震災から復興するためには相当に思い切った政策が必要だと思っていますし、それには県や市町村のリーダーシップと覚悟が求められると思っています。

それでも、スピードが命とは言え、住民を敢えて議論から外すというやり方はイカンでしょうけどね。。

いま書きながら思ったことは、そういう即時的対応の主力は「新しい公共」に委任して、政治家や行政はサポート役に回ればいいのではないかなぁ。


選択と集中については、やる気のあるところ、知恵を出すところを重点的に支援する、というのは平時なら誰もが賛同することだと思います。
ただ、発言に際して時期を考慮しなかったことと、知事に対する物の言い方で大きな反発を食らいましたね。

ということで、賛同はできませんが松本龍氏の言ってることについて、自分なりの考えと解釈をするとわからなくはないです。
が、時期と言葉遣いを考えると、復興担当大臣というポストは不適であったと言わざるをえないでしょう。

もし宮城県が本気で住民を排除して、ビジョンを描くのなら思いのたけを県民に訴えることは必要でしょう。
誰のために推進しようとしているのか。子どもたちのためというなら、その思いを分け合わないと。

リンク先が指摘しているような大企業のためというわけではないのなら、必要なことだと思います。